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1983 年、パルコ part1 と西武劇場

FEATURE

FEATURE:By 宇川直宏(1)

渋谷パルコとカルチャー史
By 宇川直宏(1)

photo Naoto Date(portlait) text Keisuke Kagiwada

「『渋谷パルコ』を中心としたセゾンカルチャーには80年代から深く影響を受けています」と言うのは、 9階のクリエイティブスタジオで「SUPER DOMMUNE」を主宰する宇川直宏さん。そんな宇川さんに「渋谷パルコ」文化の現在・過去・未来を語ってもらった。

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SUPER DOMMUNE(9F)/宇川直宏が開局した、日本初のライブストリーミングスタジオ。これまでに手がけた番組は 1 万時間超。☎なし。営 10:00 ~24:00 ※イベントにより変動あり 不定休

われわれの世代のリアリティとして、自分たちが今世紀を生きている文化の礎を作ったのは、間違いなく堤清二さん率いたセゾンカルチャーだと言えます。そして、その中心にあったのが「パルコ」です。戦後から1960年にかけての高度経済成長期の日本では、物質的な豊かさが求められていました。しかし、東京オリンピック、大阪万博を経て成長が絶頂に達すると、今度は精神的な豊かさを求める余裕が生まれてきた。精神的な豊かさを得る上で何が必要かと言えば、情報、つまり文化。そんな中、情報を売ることを発明したのが、堤清二さんであり、そうしたコンセプトのもとに1973年に登場したのが「渋谷パルコ」。以降80年代後半までは、渋谷パルコを中心とするセゾンカルチャーが、日本の文化潮流の前衛をUPDATEし続けます。

セゾンカルチャーが⾒せてくれたもの。

じゃあ、セゾンカルチャーは何を打ち出したのかと言えば、“脱大衆文化化”です。それを一番如実に成し遂げたのが、オープン当初から渋谷パルコ内に入っていた「西武劇場(後のPARCO劇場)」。寺山修司率いる天井桟敷をはじめ、60年代のアングラな熱を絶やさずに洗練させました。さらにオープニングは武満徹さんと高橋悠治さんの『MUSIC TO DAY』です。これがまさに脱大衆文化化です。
1975年にオープンした「西武美術館(後のセゾン美術館)」もそう。ジャスパー・ジョーンズ、アンゼルム・キーファーの展示を行い、81年にはマルセル・デュシャンの日本ではじめての大規模な個展を行ったことからもわかるように、コンテンポラリーアートを嗜むという文化がなかった日本人に、その最前衛にあるものを見せつけたわけです。美術館内にアート専門書店「アール・ヴィヴァン」が併設されていたのも超重要。ここでは海外のアートブックや雑誌の他に、例えば、クリスチャン・マークレーの「Record Without a Cover」をはじめ、ノイズ/アヴァンギャルドのレコードも売られていたんです。当時はアート文脈からの輸入レコードの接続が皆無だった中、僕らはアール・ヴィヴァンで未踏の文化とコンテクストに触れていったのです。

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WAVE (1F)/「音と映像の新しい空間」として文化を発信したレコードショップ。99年に閉店したが新生・渋谷パルコで再始動。レコードの他、Tシャツやオリジナルのアーモンドミルクコーヒーなども。☎03-6455-2214 営11:00~21:00 不定休

その後、輸入レコード/ダンスミュージック・カルチャーは、1983年にレコードショップ「WAVE」がオープンしたことでさらに研ぎ澄まされます。まず特筆すべきは、12インチヴァイナルという、それまで日本人には馴染みのなかったものを広めたことですよね。その意味で、DJカルチャーを育んだのもセゾンカルチャーだとすら語れる。
また、WAVEは独自のレーベルを持っていました。当時ディレクターをしていたのは、「DOMMUNE」の番組にも何度か出てもらっている明石政紀さん。アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン、デア・プラン他の日本版を続々とリリースしていて、それらの音楽を通して「ノイエ・ドイチェ・ヴェレ」というドイツにおけるニューウェーブの世界観と「ジェニアル・ディレッタント」(DIY思考によって自己組織化しようとしたジャーマン・オルタナティヴ)を日本に持ち込んだ。それによって、アヴァンギャルドが音楽の文脈においても定着し、若人が急速に脱大衆文化化されていったのです。
WAVEが入っていた「六本木WAVE」というビルには、映画館「シネ・ヴィヴァン・六本木」も入っていました。それまでの映画興行は、ハリウッド資本で作られた作品などを筆頭に、動員至上主義に囚われていました。シネ・ヴィヴァン・六本木は、それに対するシネフィルとはまた一線を画したコンテンポラリーなアートフィルムを上映していったわけです。こけら落としがゴダールの『パッション』で次が『コヤニスカッティ』ですよね。

カルトフィルム、『ビックリハウス』、寺山修司…。

映画の上映は、1981年に渋谷パルコ内にオープンした多目的スペース「スペース・パート3」でもやっていました。80年代はミニシアターと同時にレンタルビデオの台頭によって齎(もたら)されたカルトフィルムブーム到来の時代でもあって、その中で最もよく知られる1970年のカルトマスターピース、アレハンドロ・ホドロフスキーの『エル・トポ』も「スペース・パート3」で上映していました。面白いのは、『エル・トポ』の配給権を購入しようとしたアーティストが世界に2人いて、それがジョン・レノンと寺山修司だったということ。つまりここにも60年代の文化との接続を見出せるわけです。
パルコ出版が作っていた渋谷のタウン誌『ビックリハウス』にも、寺山修司の文脈が読み取れます。初代編集長と副編集長は、元天井桟敷の榎本了壱さんと萩原朔美さんですからね。同時に興味深いのが渋谷パルコがエッジの立ったタウン誌を作っていたということ。まさに渋谷の文化の象徴を渋谷パルコが作っていたことの証拠です。
さらに言えば、80年代のセゾングループは広告ブームも作りました。糸井重里さんの「不思議、大好き。」「おいしい生活。」ですよね。それまでコピーライターという仕事は大衆には広まっていなかった。だけど、糸井重里さんたちのコピーライティングが、80年代の文化を拡散するためにいかに重要だったかを、当時中学生の僕にもわかるようにパルコは示してくれた。実際、そこで提示された「不思議」とは文化のことですし、「おいしい生活」を支えるのも文化であるという隠喩です。
繰り返しますが、高度経済成長期、日本人は物質的豊かさを追求するために物を買い漁った。その後バブル期に差しかかっては、文化的豊かさを享受するために情報を買うようになった。渋谷パルコを中心としたセゾンカルチャーはまさにその情報を流通させることを通して、70年代から80年代後半までの日本文化のインフラを、演劇、美術、音楽、映画、出版という全方位から築き、日本人のライフスタイルを変えていったわけです。

インターネットとオタクの台頭。

しかし、90年代に入ると、それがじわじわと崩壊してくる。直接の原因は、1991年のバブルの崩壊から1995年に『Windows95』の登場によって一般に普及したインターネット浸透への世の変遷です。泡が弾け飛んだ後、情報がタダで入手できる時代が現出した。裏を返せば、セゾンカルチャーが形作った文化インフラは、80年代のオルタナティヴにおけるインターネットやウェブの役割を果たしていたとも言えるかもしれません。ですが、情報の無料化によってそれがじわじわと無効化していき、それ以降の文化のインフラは、インターネットに移行していく。そして、セゾンカルチャーと入れ替わるように台頭したのが、オタクカルチャーですね。
実際、90年代後半は、オタク的なマーケットが拡大してきて、それがオルタナティヴの中心に変わっていった。文化の脱大衆化がセゾンカルチャーの功績だとすれば、オタクカルチャーはハイコンテクストな高度消費を纏(まと)って、それをまた大衆の側に戻したと言えるかもしれません。これはサブカルチャーとサブカルの違いとしても語れると思います。どちらもメインカルチャーに対するカウンターには違いないですが、サブカルはアニメ、ゲーム、アイドル、プロレス、芸能ゴシップ、そしてハードコアを含まないパンクロックを中心とした大衆文化だと僕は捉えています。つまりポップカルチャーのことでしょう。だからゼロ年代にはオタクと融合していくのです。そこにはコンテンポラリーアートもカルトフィルムも、コア演劇も、アヴァンギャルドミュージックもない。そのようなカウンターがインターネット上で消費され、オルタナティヴの最前衛に居座ったのが、1995年から2015年の20年間。
別の言葉を探るなら、モノを売る時代、情報を売る時代の次に、コンテンツを売る時代が到来したということです。東浩紀さんの言葉で言えば、データベース消費の時代ですね。つまり、誰もが共感できる物語がなくなってしまったため、コミュニケーションによって構築されたデータベースをハードに消費していく時代になったのです。

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宇川直宏
うかわ・なおひろ| 1968 年、香川県生まれ。 DOMMUNE 主宰。
映像作家、グラフィックデザイナー、VJ、文筆家、大学教授、そして “現在美術家”など、幅広く極めて多岐にわたる活動を行う全方位的アーティスト。

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