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写された共犯関係 ― 操上和美が見た渋谷とヨウジヤマモトの現在地

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写された共犯関係 ― 操上和美が見た渋谷とヨウジヤマモトの現在地
写された共犯関係 ― 操上和美が見た渋谷とヨウジヤマモトの現在地
Photo
Kazumi Kurigami
Text
Hirofumi Kurino
Director
Sato Takayoshi (OGYA inc)
Stylist
Keisuke Baba
Model
YACO, Jun Niioka(BARK IN STYLE)

渋谷という都市に、山本耀司の思想を受け継ぐ6つのブランドが集結する。
Y’s、Y’s for men、discord Yohji Yamamoto、LIMI feu、Ground Y、S’YTE。
それぞれが異なる言語で“ヨウジヤマモトDNA”を語りながら、渋谷パルコという場においてひとつの存在感をかたちづくっている。

伝説の写真家・操上和美が写し出したのは、街を背景にまとわれた服が醸し出す、静けさと緊張感。
ファッションと都市、ひとと時間が交錯する瞬間が、彼のまなざしによって深く焼きつけられている。

そして栗野宏文は、「まち・ひと・もの」の視点から、その風景の背後にある記憶と関係性を語る。
写真とことばが重なりあうこの記録は、服が都市と結びつくときに生まれる、ひとつの「共犯関係」の証しである。

Y’s Y’s for men

ひと・まち・もの

まちはひとがつくる。
ひとが集い、暮らし、ものや考えを交換する場として‘まち’は成立してきた。と同時に‘ひと’もまちが作る、と言えるだろう。
少なくとも僕(栗野宏文70代)はまちによって育てられた、と言っても過言ではない。
個人的な内容から始めるのは別に個人史を語りたいからではない。ただし‘当事者’としての経験を語ることはこの原稿において有効だと信じる。

そもそも僕の母(1927~2010)は渋谷で生まれ育った。映画好きな少女だった母は‘開始のベルが鳴ったのを聞いてから家を出ても上映に間に合った’というエリアに暮らしていたらしい。そんな母は小学生の僕をよく映画館に連れて行ってくれた。僕は自然に電車の乗り方や映画の切符の買い方を覚え、10代中盤以降は一人で渋谷の名画座に通い始めていた。
入場料は300円だったと思う。交通費は世田谷線で子供割引なら30円で下高井戸から渋谷まで行けたのだ。時間はとてもかかったが。
やがて音楽に目覚めた僕は渋谷でレコードを買い、当時、何軒かあったロック喫茶に通いだした。ひとがひとと出会う、それもまちの果たしてきた役割だ。そこで知り合った顔は日比谷野外音楽堂(通称ヤオン)でも見かける様になり、いつの間にか僕はロック・コンサートの手伝いをしていた。勝手にコンサートのポスターを貼って歩いたのも渋谷だ。僕はロック喫茶で英語の教科書を開いて宿題を終わらせた。僕の様なはみだし者をなんとか箱に入れようとする学校や教師との距離が広がり、僕はませた高校生になった。まちがひとを育てる。
やがて僕は洋服への興味が増し、まちに洋服を買いに行く。気になる服の対象はそれまでのジーンズやTシャツからデザインされた服へと向かった。当時、所謂‘デザイナー・ブランド’の服を売っていたのは直営店中心だったところに‘ファッションビル’という存在が立ち上がる。

LIMI feu S’YTE

時代は70年代から80年代に移り、敗戦国の日本は復興し、経済大国、消費大国への道を歩んでいく。僕のスタイル・アイコンがデヴィッド・ボウイだった1973年、渋谷に開店したパルコは80年代にはデザイナー・ブランドを集積したメッカとなった。

山本耀司のコレクションは同時期に世界デビューした日本のデザイナー・ブランドとは異なる美意識を持っていた。
それは西欧において継承されてきた服装概念とは対極にあるもの、とも言えるかも知れない。
肉体や性的エレメントの強調、或いは着手が所属する’階級’を体現してきたものが西欧のふくであるとしたら、
ヨウジヤマモトのふくは‘からだをつつむ’ふくである。
しかし声高に自己主張しない様に見えつつ確かな存在感を放つ’自己’のある服。
そこに日本らしいストイシズムや故のセンシュアリティ一を海外ジャーナリストやバイヤー…そしてなによりも着手が見出していった。
ヨウジヤマモトは‘和’の美意識と‘洋’のクチュールの融合と評価されたのだ。
装飾性はレスだが簡素でも無味無臭でもない‘ゆらぎ’のある服。或いは‘陰翳礼讃’的な秘めたる官能性がそこに感知された。
ヨウジヤマモトの服は欧米の俳優や芸術家に好まれたが欧米では西欧的な社交の場に身を置かざるを得ない立場にありながら、所謂、ソワレやドレスやタキシードを着たく無い客層に、彼等の、特にヨウジヤマモトの美学は深く響いた。ヴィム・ヴェンダースやピナ・バウシュは単にヨウジヤマモトを着ただけではなく、表現者としての魂をもそこに吹き込んだ。

或いはJFケネディ・Jrの妻でファッション・リーダーとされた故キャロリン・ベセット・ケネディ。彼女がシンプルにヨウジヤマモトを着こなした姿が記憶に残る。彼女は元祖クワイエット・ラグジュアリー、とも言えるのだが、ヨウジヤマモトの服はその文脈にも属する。

ヨウジヤマモトに限らないが、日本のデザイナーのふくは‘ひと’を覆い隠したり、飾り立てたりするものではなく、逆に纏う中から、そのひととなりを表出し得る存在ものではなかったか?つまり、ここでのふくは‘もの’ではない。ひとがものを‘もの以上の存在’へと昇華させた姿を我々は目視して来たのだ。或いはふくというものがひとの魅力(時には本人も知らないなにか)を可視化する。ひとはふくを育てるが、ふくもひとを育てる。
それを目撃し、映像に写し撮るのが写真家だ。

discord Yohji Yamamoto Ground Y

かつて写真は真実を語る道具と位置付けられ、一瞬の美や刹那のエモーションを定着させるもの…とも信じられた。だが本当にそうだろうか?写真は結果であって、その前後は観者が想像する(或いは誤解する)しかない。写真は公平でも解放的でもない。時には対象物を特殊化したり、極端に限定させたりもする。初期の肖像写真が記録した王侯貴族や富裕層の姿は写真という近代装置による‘王権神授説’証明の様にさえ見える。
つまり写真は特権化の道具としても機能してきたのだ。撮られるひとは特別だったと言える。ファッションはある時期までその文脈上にあった。
写真家が職業となり、写真が発表される‘場’が構築され拡大し、芸術の一ジャンルとなる一方で、写真機自体が入手し易くなっていき、ある意味、写真の民主化が進行した。現在に目を移せば、スマートフォンの発達と普及によって‘撮る’ことは当たり前の行為となった。自撮りやインスタグラム、投稿、ソーシャルメディアの普及は写真の在り方を変えつつある。今や誰もが撮る人であり、撮られるひと、でもある。発表の場として長らく特権性を保ってきた雑誌等の存在以上に、いまや全世界のひとが自己メディア化したのだ。

では写真家という職業はどうだろう?前述のロジックだけで言ってしまえば‘誰もが写真家’の時代に従来的な写真家は居場所が無い筈なのだが、
だからこそ、特定の誰かの写真’が際立っている。それはある意味先駆者利益的なものなのかも知れないが…。
ひとがひとを写す。写真家と被写体との関係性は共犯的でもあるだろう。‘写真機=銃‘という論はスーザン・ソンタグによって知られるが、そこにある一方性(写す・Shooting)から生まれる批判や問題意識とは別に、撮る側にも撮られる側にも存在するある種の‘愛’について言及した写真家が操上和美(クリガミ・カズミ)である。
現在89歳の写真家は未だ精力的に驚異的に撮影をこなす。
無理矢理にでもひとことで操上を表せ、と言われたら僕は‘自意識’というキイワードを挙げたい。操上が撮ってきた膨大な作品群の中でもひとは彼の肖像写真に惹かれる。ある対談のなかで操上は‘オレを理解されちゃ困る’ということを言っている。或いは、制約や要求が多い広告の仕事を手掛ける中で‘オレに高額のギャラ払っているんだから、オレの自由にやらせろ‘と言った、とも。一瞬、逆では?ともとれるこの発言は、それでも未だ操上に依頼が途切れない、或いは依頼者自身のハードルを上げてでもしごとを発注してくるその背景と理解できる。
操上和美にしか撮れない結果を期待しているのなら任せて当然だ。
その操上和美と多く仕事をしてきたのが北野武だ。北野も僕にとっては強烈な自意識のひと。そして北野が映画衣装としても個人的にも着てきたのがヨウジヤマモトのふくだ。
一見、静かに見えるが、その底に可視出来ないくらいの濃厚な暗さを湛えたヨウジヤマモトのふくは着手によって、単なるふくを超える。
そして操上和美は2者が起こした結果を一種の魔法に変える。
その魔法は商業施設の中に掲示され、観者つまり来館者によって感知される。来館者は館に並べられたふくに惹き付けられ、客となる。客は単に購入してものを所有した、という取引関係を超えていくかもしれない。
目撃されるべきなにか、はこうして共犯関係のキイとなっていく。

ひとがまちをつくり、まちがひとをつくり、ひとがふくを纏い、写真家はそれを意思を持って画像に写し撮る。写し撮られたものは館で公開され、それをひとが観る。結局、まちには意思を持った館が必要なのだ。
そして僕はこのまちと館に育てられた。

ブランド名
Y’s
フロア
3F
公式ブランドサイト
https://www.yohjiyamamoto.co.jp/ys/
電話番号
Y’s Information desk
03-5463-1503(4/24迄)
ブランド名
Y’s for men
フロア
3F
公式ブランドサイト
https://www.yohjiyamamoto.co.jp/ys-for-men/
電話番号
Y’s Information desk
03-5463-1503(4/24迄)
ブランド名
discord Yohji Yamamoto
フロア
1F
公式ブランドサイト
https://www.yohjiyamamoto.co.jp/discord/
電話番号
03-6416-5418
ブランド名
LIMI feu
フロア
3F
公式ブランドサイト
https://www.yohjiyamamoto.co.jp/limifeu/
電話番号
Y’s Information desk
03-5463-1503(4/24迄)
ブランド名
Ground Y
フロア
2F
公式ブランドサイト
https://www.yohjiyamamoto.co.jp/groundy/
電話番号
03-6427-8984
ブランド名
S’YTE
フロア
1F
公式ブランドサイト
https://www.yohjiyamamoto.co.jp/syte/
電話番号
03-6779-9200

操上 和美(Kazumi Kurigami)

1936年 北海道富良野生まれ。

主な写真集に
『ALTERNATES』『泳ぐ人』『陽と骨』『KAZUMI KURIGAMI PHOTOGRAPHS-CRUSH』
『POSSESSION 首藤康之』『NORTHERN』『Diary 1970-2005』『陽と骨Ⅱ』『PORTRAIT』『SELF PORTRAIT』『DEDICATED』『April』
『50,50 FIFTY GENTLEMEN OF EYEVAN』 

主な個展に
「KAZUMI KURIGAMI PHOTOGRAPHS-CRUSH」(原美術館)、
「操上和美 時のポートレイト ノスタルジックな存在になりかけた時間。」(東京都写真美術館)
「PORTRAIT」(Gallery 916)
「Lonesome Day Blues」(キヤノンギャラリーS)
「April」(takaishii gallery)
「Kurigami88」(代官山ヒルサイドテラス・ヒルサイドフォーラム)

2008年 映画『ゼラチンシルバーLOVE』 監督作品。

栗野宏文(Hirofumi Kurino)

1953年生まれ。大学では美学を学び、卒業後はファッション小売業に。
スズヤ、ビームスを経て1989年にユナイテッドアローズを創業。2008年まで同社、常務取締役。その間、販売、買付、マネージメント、プレス、ディレクターを経験し、最終的にはCCO(チーフクリエイティヴオフィサー)。
2008年の役員退任後は上級顧問。
2014年よりLVMHプライズの審査員。今年度も継続している。
'モード後の世界'を2020年に上梓。台湾、韓国でも出版されている。

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